父はわんぱくで勉強嫌いだったので、早くに家を出された。行き先は大阪の老舗の粟おこし屋だった。そこで父は、地味な職人ではなく商人として鍛えられたのだった。それで絵描きではなく商人の道が決まってしまった
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父がだいじにしていた花札がある。
その花札のすべての絵は、父が若い頃に描いたものだと自慢していた。そんな絵心もずっと持ち続けていたのかもしれない。
ぼくの目の前で、父は一度だけ絵を描いたことがある。
どこかの田舎の道で、その真ん中に黒っぽい大きな塊が描かれてあった。その黒いものを何かとだずねると、それは石だと父は答えた。そんな石のようなものが絵になるのかと、ぼくはびっくりした記憶がある。商売と生活に追われていた父が、絵など描いたのはそれきりだ
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祖父は死ぬ前に、朦朧とした意識の中で、3匹のねずみが九州から会いにきたと言ったと、のちに聞いた。3匹のねずみとは、ぼくと二人の妹のことだったらしい。
その頃、東京で長い放浪生活をしていた痩せたねずみは、祖父が死んだことも知らなかった。
祖父は白髪だったが、父は歳とともに髪の毛が薄くなった。
ひな鳥のようになった頭を、孫たちが面白がってからかうと、寝ているあいだにねずみが齧りに来るんだと言って、父はチビたちを笑わせていた。
わが家には相変わらず、ねずみがいっぱい巣食っていたのだろう。
子どもの頃は、ねずみは米びつに穴をあけたり、鏡餅をかじったりして人の生活のすぐそばにいた生き物だった
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夜中に天井裏を駆け回っていたねずみたちも、その後はどうなったことやら。コンクリートの中で暮らしているせいか、かつて身近にいたねずみたちも、いまではすっかり疎遠になってしまった。